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1 プロローグ ![]() ↓ ![]() パキスタン地図
1993年夏、我々(社)日本山岳会 東海支部隊は、中国カラコルムのクラウン峰(7295m)初登頂に成功した。登山自体は十分満足行くものであったが、しかし頂上から東方を見るとそこには圧倒的な大きさでピラミッド型をしたK2がそびえている。 ![]() 皇冠峰 C3から見たK2 (K2 from The CROWN C3) 手前はインスガイティ氷河、右奥にはムスターグタワーが見える。 「かっこいいなー」ボーとした頭でも素直にそう感じた。「あの景色を見てしまったからにはいつかはK2に登るしかない」。今までK2を意識もしていなかったが「一目惚れ」してしまった。しかし心を惑わされたのは私一人ではなかった。隊長の徳島和男も同じように恋こがれてしまったようだ。また偶然のことに、この年ブロードピークに登った田辺
治もK2をはっきりと次のターゲットとして意識していた。奇しくもこうして西稜から未踏の西壁へのルートをとるK2計画はスタートしたのである。 1996年、翌年に出発を控えたこの夏、隊への参加を表明していた山崎彰人は、同じくクラウン峰のメンバーであった松岡清司と共にパキスタンのウルタル2に挑み、初登頂に成功した。しかし信じられないことに山崎は登頂後あっけなく亡くなってしまったのだ。(「山岳」Vol.91) 山崎と私は、岐阜大学山岳部時代からロープを結び続け、ネパール、中国の山々を一緒に登っており、「次はK2を!」という時だっただけに、ぽっかりと心に大きな穴があいてしまった。しかし悲劇はこれだけにとどまらず、なんと国内準備もすっかり終わり、K2への出発を10日後に控えた1997年5月5日、今度は隊長の徳島が北アルプス涸沢で雪崩に呑み込まれ亡くなってしまったのだ。「何故こんな時に!」。私自身大きく動揺した。しかし私の決意は固まっている。「K2へ登る」と。他の隊員も皆同じ考えであった。「隊長の無念を晴らすためだけでなく、自分のためにK2へ登る」と言ってくれたのを非常に嬉しく感じた。結局徳島隊長亡き後、田辺登はん隊長が隊長となり隊をリードしていくことになった。 1997年5月16日慌ただしく登山隊はパキスタンへ出発した。6月3日550人のポーターと共にキャラバンをスタート。6月10日サボイア氷河入り口のゴッドウィンオースティン氷河との合流点にBC(5150m)を開いた。予定ではサボイア氷河上の5500m地点をBCとすることにしていたが、ポーターの協力が得られず通常の地点となってしまったのだ。そのため当初のBC予定地をABCとして、6月14日から田辺、小林らによってルート工作がスタートした。 ![]() ABCからみたK2 6月16日にはC2(6400m)予定地まで達した。その日、ブロードピークの静岡隊で雪崩事故が発生し、我々に救助要請が出された。決して他人事に感じられず全隊員で必死の捜索を行った。6月20日から登山を再開したが、22日にはABCでシェルパのダワ・タシが20m以上もクレバスに落ちるというアクシデントが発生し、またもや中断。奇跡的に骨折と打撲程度ですむが、10日間近くもルートが全く延びず焦る気持ちも少し出てくる。 6月26日に山田、中川、鈴木らでC3へのルート工作を再開するが、すぐに悪天の周期に入り、田辺、小林のパーティーに交代。的確なルートファイディングで、西稜の早大隊を苦しめたC3直下も別のルートをとり、4級の岩場1ピッチで難なく突破。7月5日にその後ほとんど使われることの無かったC3(7000m)が建設され、その勢いで7月7日にはC4(7600m)地点に達した。 ルート的には、C4の少し上部までは西稜ルートと同様であるため気楽なものであったが、問題はここから先である。幸いなことに7月に入って天候が安定している。しかしいつかは悪天につかまる。「ブラックサマー」何時も忘れることの出来ないこの暗い響きが頭を過ぎる。我々はタクティクスの変更を決めた。隊員の消耗は非常にはげしいが、今しばらく晴天が続くとみて、短期間で頂上に達するタクティクスとしたのである。つまりC5ルート工作チームと、頂上アタックチームを同じチームで一気に行ってしまおうというのだ。そのチームとして調子の良い田辺、ギャルブー、ミンマ、鈴木の4名がパーティーを組むことになった。それからの毎日は、先のルートもはっきりとしない、いつ悪天の周期に入るかわからない・・・・精神的に辛い毎日が続いた。 7月15日にC4入りした我々は、16日には西稜ルートから左上しやっと待ちに待ったオリジナルルートに入る。私はどんどん西稜を廻り込むように左上し、スノーバンドが続いていることを確認するたびに、ビレイヤーの田辺に向かってガッツポーズを繰り返す。C5まで2日と予想していたが1日足らずで、テントが1張りはれるC5適地に着く。だがここからが核心部である。田辺隊長と一番問題視していた西壁への入り口を偵察にいく。田辺リードで2ピッチ、西壁が初めて我々の目の前に飛び込んでくる。田辺は私に向かって腕を精一杯挙げて大きなまるで合図してきた。トランシーバーの声も弾む。西壁上部はまだ見えないが、とりあえず西壁にとりつくことは出来そうだ。ところがどうしたことか、C4に帰るとシェルパ2人が西壁を見てビビッたのか「体の調子が悪く下りたい」と言い出したのである。私たちだけでもルートを延ばすことは問題ない、しかし下手くそクライマーの性、必要なフィックスロープ、ロックピトン等を2人では持ちきれない。もう1人どうしても必要ということで、中川を新たにパーティーに加えることにした。下のキャンプとそんな交信をしているときに、またまた信じられない、とんでもない情報がもたらされた。ウルタル2に山崎と共に登り、今年はレディースフィンガーに単独で挑んでいる松岡が雪崩で死んだというのだ。私は取り乱してしまった。「松岡よおまえもか」。クラウン峰以来何度もロープを結びあった仲間をまたしても失ってしまった。一時は「K2登山を止めて遺体捜索に行かねば」とも考えたが、明日からはアタックが始まる。1時間以上死んでしまった松岡のことをずっと考え続け、何とか精一杯気持ちを落ちつかせこのまま登り続けることを決心した。 7月18日はC5への移動と頂上へのルート工作。C5到着後、昨日C2から合流した中川が雪崩そうな急雪壁を順調にルートを延ばしてくれた。そしていよいよアタックの日、7月19日、ザックいっぱいにフィックスロープを入れ3人バラバラに出発。遠く南西方向に雲が現れだした。「天気よ何とかもってくれ」祈る気持ちである。昨日のフィックス終了点から田辺トップでルート工作。ぐさぐさの雪で力がどんどん吸い取られているようだ。頻繁に呼吸を整え、一歩一歩確実に高度を稼いでいく。西壁上部で私にトップ交代。上部には北壁雪田へ抜けられそうなコルらしきものは見えるが、本当につながっているのか、写真では詳細が全くわからない。この目で確認するしかない。祈る思いで必死にコルにはいあがった。北壁最上部、スッパリとK2氷河まで落ちる急な雪壁を左手に見て15mほどトラバース。そこはテニスができるほどのスノープラトーになっており、なんと右手を見ると話に聞いていた雪の丘が。先の見通しが立たずあきらめかけていた西壁からいきなり「頂上」が目の前へ。現実の世界へとトリップしてしまったようで、いささか拍子抜けであった。我々は3次元の迷路をやっと抜けだしたのだ。14時30分頂上に着く。落ちついて回りを見渡すと、中国側から遠くナンガパルバット方向が広く雲におおわれていた。好天が3週間もよくもってくれたものだ。 ![]() K2登頂 その後、2次隊も7月28日に滝根、中島、山田、小林の日本人4名、ペンバ・ドルジェ、ダワ・タシ、ギャルブー、ミンマのネパール人4名(ネパール人初登頂)の8名が登頂し、成功裏に登山を終了することができた。 今回の登山隊に参加する時に私の友人は、「いまどき、極地法で、フィックスベタ張り、酸素吸って、シェルパ使って、そんな登り方して何になるの?」と痛いところを突いてきた。自分でもわかりすぎるほどわかっていた。こうして今「憧れの」K2に登ってみて感じたこと、それはやはり出発前に恐れていた事、そのものだった。が、それ以上に「充実感が足りない」ことであった。登り方のスタイルは自分自身納得がいけばそれでいいと思っていたのだが、この「充実感」(ある意味で山登りを続けている理由でもあるのだが)の不足は如何ともし難い。素直に登頂後の感想を書くとそうなってしまう。しかし登頂したことは素直に喜びたい。問題は次にどんな登りをするかだ。それが逆に今回の登山の成果となることを信じて疑わない。 ((社)日本山岳会「山」630号-1997/11/20に発表) |
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