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「人が死ぬと残された人は悲しいんじゃなくて寂しいんだなー」ふとそう思った。 山崎が亡くなったと聞いたその日、私の頭の中は「真っ白」になった。その後次から次に山崎との山行がよみがえってくるのと同時に、なんだか自分の過去の歴史をすべて一瞬に失ったような、いいようもない寂しさがおそってきた。 私にとって山崎とは身近なライバルであった。 ほぼ同じ時期に山登りを始め、多くの山行に一緒に行き、海外の山も2度共にし、来年はK2へ。社会人になって山登りから遠ざかってしまう仲間が多い中で、共に今の山登りを語れる数少ない山岳部のOBだったのだが。
山崎がウルタル・で亡くなってからはや1年、この夏私はK2を終えた後、同じくクラウン峰、K2で一緒だったN君と共にその地、パキスタン北部、ウルタル氷河のウルタルベースキャンプ跡地を訪問しました。 周りを7000m以上の荒涼とした山々に囲まれた緑いっぱいのオアシス「フンザ」、そこからビルの谷間のような渓谷を登り、ウルタル氷河右岸を少し上がると羊の放牧地となる。そこがウルタルベースキャンプであった。フンザの村から2時間ほど。目の前にはウルタル氷河を隔ててウルタルの前衛峰が、左手にはフンザピークからレディースフィンガーが。近くに目を移すと夏の間だけのテントによる宿が有り、草地の中を小さな河が流れ、おいしそうな羊がとぼけた目をしてこちらを見ている。 案内してくれた人が教えてくれたベースキャンプ跡地は4畳半くらいの平らな場所。何でここまででも帰ってこれなかったんだ。こんなすてきな場所に。その近くの丘の上には長谷川恒男さんらのお墓があり、私たちはN君の作ってくれたメモリアルプレートを据え付けてきました。そのプレートに山崎、松岡の2人の名前を書かなければならなかったことがとても残念でなりません。 しかし「フンザ」の人々の中には「山崎」という若い日本人たちが「たった2人で」この山を登ったんだ。「俺は彼らを知っているんだ」と誇らしげに言ってくる人が非常に多かったことはみなさんに報告しなければなりません。
本来でしたら、私の知っている山崎彰人をみなさんにお伝えしないといけないのでしょうが。色々ありすぎて、色々と思うことも多すぎてこんな文章になってしまったことをお許しください。 最後にYちゃんの健やかな成長をお祈りしたいと思います。 (ウルタル・ 「さくっと登ってきます」の原稿)
以下は、個人的に書いていたもの 山崎をはじめてはっきりと意識したのは、私が岐阜大学ワンダーフォーゲル部3年の夏のことであった。御岳山の麓でワンゲルのサマーキャンプを行うために、軽トラックで山崎と2人、荷物をいっぱいにして向かった時のことである。それ以前に山崎はワンゲルに入っていたのだから印象に残っていてもよさそうなのだが、おもしろい奴だなというくらいで特に印象には無かった。とにかく軽トラの中で色々な話をした。「実はワンゲルを辞めようと思っている。」と言われたのもその時だった。「山歩きでなくて、かっこいい岩登りがしたい………。」 高校生の頃からそんなことを考えていたとのことであった。山崎にとってはクライミングがカッコ良かったのだろう。結局夏の終わりと共に山崎はワンゲルを辞めて山岳部へ移っていった。私もワンゲルのリーダーをしていたFTと共に秋にワンゲルを卒部し、そのまま山岳部へ入部した。ただ私にとってはカッコ良いクライミングを志した山崎と違って、山として山歩き、岩登り………と技術的にステップアップしていった結果の行き着く先として山岳部に入部したにすぎなかったのだが。この思考の違いは後々も色々と衝突の原因となることも多かったが、今となってはそれもなつかしい思い出となってしまった。 こうして、山崎、ピカピカの一年生のK、FT、そして私と合計4人、ちょうど岐阜大学山岳部も事故を起こした後で、部員も実働、Yさん、YTさんの2名になっていた時に息を吹き返すように活動がスタートした。 山岳部での登りは、例えばエイドクライミングのやり方もわからず、フィフィの使い方を知ってとんでもなく感動するような、今思うと非常に未熟で危なっかしいものであったのだが、本当に色々な所へ登りにいった。それ以前の山岳部では、行く岩場はいつも同じで、多少マンネリなところがあった。それを打破したのが山崎だった。色々情報を持ってきてはそれを次々と実行していく、いつもその繰り返しであった。そんな中に、1993年に日本山岳会東海支部隊で山崎も私も登頂した中国のクラウン峰もあった。はじめは「岩と雪」の日本ヒマラヤ協会の記事と写真を見て、みんなで「岐阜大隊で行きたいなー」「いつかはクラウン」と言い合っていた。ただ本当に行くつもりで話していたのは山崎だけだったのだが。結局「その時のクラウン」は地域研究を少ししただけで、それ以上話は進まなかったが、後に実際に行くときにはなにか因縁めいたものを感じてしまった。そんなクラウンのように、いつも山崎の考えは私たちの考えもしないような突拍子もないもので、今の自分たちの能力や実力とかけ離れた、現実味のないものばかりのような感じを受けるものであった。しかし少しずつそういった刺激を受け、ダメもとで実行していくことで、「もしかしたら俺たちにもできるかもしれない」と思わせるものがわき出てくるような気がしてきた。・・・・・・ |
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